何が正しくて何が間違っているかについてをこの場所で論議をするつもりはありません。
全ての存在そのものが正しい物であると言った程度の論理認識はあるつもりですが、やはり、自分か良いと思う方向に世の中を変えて行こうとする力が、自分の中に湧き出る泉のごとくじわじわと湧き出てくるんです。
そこで、何が正しいのか、このことについて考えてみることにしました。
まず、未来社会を想像してみることにしました。
人々はいつもニコニコして、生き生きと生きています。
生きていることに、喜びを感じています。
そこでは、だれ一人として他人を傷つけようとは考えません。
だから、今の地球人から見るとバカみたいに従順でお人好しに見えるかも知れません。
常に基本的な行動規範として流れている理念は、他の人に『愛』を与えようとする力で、自己を他人と分離した固体と考えず、全体の中に埋没させながら(全体との調和を保ちながら)自己表現をして行く、そんな生き方のように思えます。
泥棒は存在しません。
輪廻転生の考え方は、はっきりと理解されており、自分のしたことは必ず自分に帰ってくることが解っているからです。
泥棒までもが、輪廻転生の考え方を理解している? 全体的な霊的成長レベルの高さが有れば逆に泥棒なんかは存在しなくなっていると考えられます。
簡単に言うと、人のものを取れば必ず自分の霊的成長スピードが遅くなる事や、そのことが物質的進歩を遅らせる結果になることにもつながり又、もう少し考えを進めると、うそをつけなくなるようです。
いや、言い方の順序が逆ですね、うそをつかない事から始めたんですかね。?
うそをつくことによって自らの魂の成長にとって著しいマイナスになることを知っているんです。
又、その事の重大さは、いかなる物質にも変えがたい、大きな意味があることにつながって行くことも理解されているようですね。
今の世の中を見て、人々の行動を見ていると、
人々は、非常に疲れている様に見えます。
疲れている原因が、毎日毎日くり返しているお互いのエネルギーの奪い合いであることも知らないで。
地球人同士がお互い憎みあっている、そんな人々の割合が多い様に見えます。
憎み合うことによって寿命が数百年もちじまっいる事も知らないで。
信頼関係が築けていない。
心の中から信頼出来る人々ばかりになった地球を想像してみてください。
安全です。何のストレスもありません。
草花や森の木々は、いつも人々を癒そうとしている事に目を向けようではないですか。
見知らぬ人を見てつい警戒してしまうのはなぜでしょうか?
あと何年か先で私たち地球人は、はるか数百光年彼方の友人たちに会うことになると思っています。
私が小学校の時に友人と夜空を見上げて語り合った日から数十年、待ちに待った日がいよいよ近づいて来たようですね。
優しく、愛をもって友人として彼らを迎えようではないですか。
きっと素晴らしい日々が、この地球にもたらされる事と思います。
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