基本コンセプト

魂とは何か、自分とは何だったのかを思い出して欲しい!

そんな思いでこのサイトを作っています。

科学万能主義はそれ以前の宗教万能主義から

真理の探究に一定の成果を収めました

私達の生活を一変させ、過酷な生活から快適な物に変えてくれました。


しかし、

この科学万能主義が物質主義になり

自分に有益な物質かどうかを見極められるようになって

物質の奪い合いからエネルギーの奪い合いになっており

地球環境の際限ない破壊に繋がっている所から見ても

今のこの利己的な物質主義が

今の世界の混乱を招いていると言っても過言ではありません。

この物質主義、科学万能主義が作り出している世界が今の世界で

民衆のエゴの追求は今や自分達さえ良ければ・・・と言う

民族主義にまでその矛先が向いています。


人類は何かを忘れている訳ですね。

科学は「愛」と言う物を軽視し過ぎてきたと思います。

もうそろそろ、

新しい主義、主張の下に世界が動いても良い時期で

今まで科学で解明されなかった世界に足を踏み入れて

物事の解決を図る時期に来ていると思っています。

だからと言って世界に広がる

どれかの宗教に戻る(集約する)訳にも行きません・・・。

これが形而上学を推し進める一つの理由で

強いて言うなら形而上学主義とでも言いますか

この分野の研究と学問的な構築に人類は向かうべきだと思っています。


既存の宗教組織は

「宗教」の教義の中には間違いがあります

自分達の組織から抜けようとする人達を脅したりしています。

たとえば

その組織から抜けると地獄に落ちる・・・

天国には行けなくなる・・・

他の宗教は邪教だ・・・

自分達の宗教を信じる者だけが救われる・・・

色んな言葉で

自分達の宗教、宗派に引き込もうとしたり

或いは出ようとする人を引き留めようとしますが

この言葉は全部、真理では無く間違いですね

この嘘が宗教カルマを生み出します。


このような嘘を平然と述べているようでは

真理を伝える宗教で無いのは当たり前になります。

真理と嘘が混じってしまっては

盲目の信者は何を信じれば良いのでしょう?


形而上学(精神世界)を学び進める事をお勧めします。

これを学び進める事で

将来、良からぬ新興宗教に捕らわれる事も無く

人生を歩む事が出来ます。


それに

色んな宗教と言う物を客観的に捉える事が出来るようになり

それぞれの宗教組織の持つエゴが理解出来るようになり

それぞれの宗教教義の中の何が本物で何が偽物かが理解できるようになり

人としての生きる目的も理解できるようになります。


人はなぜ生きているのか・・・

人は何処から来て何処へ向かうのか・・・

この部分の答えは昔から「宗教」が担っていましたが

宗教組織で取り込んでしまう宗教エゴに影響される事は無く

宗教的な精神論を含めて

今後は形而上学と言う学問で理解できるようになり

宗教には出来なかった統合が可能になります。


すなわち

いかなる宗教組織にも属さず

宗教的な精神論を理解できるようになると言う事です。

科学で説明の付かない現象が

存在すると言う事が有ると言う事を前提にしているのが

この形而上学の初めの1歩です。

無料で読めるサイト、シルバーバーチがあります。(無料です)

http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/index.htm

ここに書かれている内容を

形而上学の第1歩と位置づけても良いかと思っています。


そして

究極的には宗教の解体です。

宗教と言う形ではなく

学問として追求すれば良い話と言う事です。


世界で戦争が終わらない原因

これは、今の社会が競争原理(自由競争社会)の中で成り立っていると思っているからで

必然的に知識の奪い合い、資源の奪い合いを繰り返しています。


この知識の奪い合い、資源の奪い合いが世界の紛争の、

大きな原因になっている訳ですが

このままで良いと言うコンセンサスが出来てしまっていて

奪う力の強さの軍事力を誇示するに至っています。


では、どうすればと言う所で、

どうも思考が停止してしまっているようにも見えます・・・

人が人の物を奪ったりする事が良いと見るか

人に与え合う世界が良いと見るかの違いですが

どうも、与え合う世界が良いと言う方向には思考が働かないようで

与えると自分の持ち物が減り、やがては無くなって

自分が飢えに苦しむのではないかと言う考え方に至る訳ですが

そこには何か人間の思考パターンに欠陥が有るようにも見えます

人から奪うより、

与えた方が平和で安全な社会が築けると言う認識にならないみたいですね。


要するに

資源を確保して(奪ってでも)自分の身の安全を守るか

お互いに必要とするものを与え合って身の安全を守るか

ここの部分の理解の違いで

いまだに世界では紛争が絶えない現実が存在している大きな原因ではないでしょうか


解決には

与え合う方が簡単で、必要な物を得るのに必要なエネルギーも少なくて済み

結果的に安価なエネルギーをお互いに得られると言う考え方が必要で

「与えれば、必ず帰って来る」と言う事を理解すると

世界が平和になると言う事が理解できるようになります。

この、「与えれば、必ず帰って来る」と言う

事が理解できるかどうかが大きな鍵になっています

これを理解出来れば良い訳ですが

実際には帰って来るまでにタイムラグが有るので

簡単に理解できない原因でもある訳で

与えあう事の方が良いと言う認識に至るには

「神」とは何かを理解し

「輪廻転生」が起こっている事を理解し

「因果応報」を理解し

自分の「生きている意味」を理解しないと

与え合う事の方が良い人生になる事は理解できない訳です。


この事を

「因果応報」と言う言葉で仏教は説いています。

そしてこの「因果応報」を理解する為には「輪廻転生」の理解も

必要になります。

そして

最後にはこの「因果応報」が起こっている事を信じるか信じないかと言う事になります。


今の私達でも

兵器の削減を仮想敵対国どうしが、納得して削減しようと言う考え方にまではなりますが

お互いに同時に削減出来なければ、一向に前に進まなくなります。

アメリカで銃の規制が進まないのと同じですかね・・・。

自分が銃を捨てても、悪い連中が捨て無かったら、自分がやられてしまう!

と言う考え方なんでしょうが・・・

「輪廻転生」と「因果応報」を受け入れると

自分は先に捨てて(銃を)でも正しい道を生きて行く、と言う考え方に到達できます。


これが

これが形而上学を推し進める私の考え方なので

いかなる宗教でも無く、いかなる組織でも無く

単なる学問として「神」への理解を進める形而上学が

一番良いのではないかと思います。


形而上学はまだ決まり切った学問体系が出来ている訳では無いです

しかし、どのような宗教組織にも属さず研究出来るのは

形而上学以外には無いと思います。


これを読まれている方も一緒に形而上学を推し進めませんか?

形而上学を世に認められる学問として構築させませんか?

貴方の参画を待っています。


私はいずれ遠い将来になるかも知れませんが

地球人類は

奪うより、与えた方が良いと言う考え方になり

生涯を通して、自らの力で「愛」を持って、

常に「愛」を他人に与えようとする時代が来ると信じています。


このような事を言っていると

よく言われる言葉に、その話にエビデンスが有るのか?

と言う言い方をする人が出てきます。


こういう人は魂の存在とか輪廻転生を信じようとしない人で

誰かに教わったんでしょうね・・・

科学で検証できない話は信じるな!・・・です。


学校の先生か親か知りませんが

この誰かに教わった話をしっかりと掴んでしまっている訳で

常にこの言葉で終始して、そこから話を聞こうとしなくなってしまいます。

科学の言う事を鵜呑みにしてしまっている状態ですね・・・。


新興宗教に属してしまっている人も同じような所がありますね

〇〇以外の言う事は全部デタラメだから、聞くな!・・・

教祖、教団の言う事を鵜呑みにしてしまっている状態です。


考え方の刷り込みと言うか洗脳と言うか

それ以外の話は一切聞こうともせずに

エビデンスは?エビデンスは?の一点張りで

他の話は全く聞く耳を持たなくなってしまっています。


こういう人達に対して、無理に説得して話を聞いて貰おうとは思いませんが

こういう人は愚かに見えて仕方が無いですね。

UFOや宇宙人の話も同じですが

おそらく自分の目の前にUFOを見るまで、

信用できないと思っているんだと思います。

いや、目の前に見ても・・・です。


米軍がとらえたUFOのレーダー画像はどう思っておられるのか?

前世の生活の記憶がある子供たちの事をどう思っておられるのか?

こういう人は全部を否定的に見ておられます。


私が言いたいのは、

そう言う風に否定的に物事を見ておられるのは自由ですが

もし仮に

あの米軍が発表したレーダー画像が本物なら・・・

もし仮に

前世の記憶を持つ子供が本物なら・・・

一度、この目線で見て欲しいという事です。


このもし仮に・・・と考えて

その方が納得できる、

その方が自然な解釈だと言う結論に導けるのなら・・・

そして

その視点で他の色んな事象も再検討して行くと良いですね


そうする事で

目からうろこ的な事が沢山起こる事が解ると思います。

世の中の真実が見えて来た・・と言う事です。


因果応報と輪廻転生は

小学校で教えた方が良いですね。


人生は1回きりだと思って生きていると

何でも自分勝手に好きな事をしてでも

他人に迷惑をかけても、人を傷付けても

人を殺してでも、自分の利欲だけを追求しても

死んだら終わりになり

この時点で無罪放免ですね。


因果応報と輪廻転生を受け入れると

来世でもそれなりの報いが有ると言う事を

理解するようになります。


ではここで、そう言う話しに

エビデンスは有るのかと言う話になる訳ですが

今の所、科学的なエビデンスは有りませんが

この事を理解しない場合

犯罪を犯しても逃げたら終わりと言う考え方や

自殺をしようとする若者に

どう言う説明や説得方法をしようとするのでしょうか?

人が自由と平等とは

どう言うエビデンスがあって説いている言葉でしょうか?


私達は

因果応報と輪廻転生を受け入れる事で

魂の平等、魂の自由を確保しているのが解るようになります!

平等だから

生まれながらに不幸な人も存在し

生まれながらに豊かな人も存在しています。


因果応報と輪廻転生を受け入れる事で

その人の人生が全て

その人の責任において

その人の自由の中に存在していると言う事が

論理的に説明できると言う事ですね。


キリスト教は大きな過ちを犯していますね

これは、輪廻転生と因果応報です。


キリスト教も6世紀に行われたコンスタンチノーブル会議までは

輪廻転生は起こっていると伝えられていたそうですが

この会議以降、輪廻転生は無い事になり

その事に辻褄を合わせるように因果応報も伝えなくなります。


これが大きな間違いで、キリスト教徒の暴力性も

ここに原因があるのでは無いかと思えます。

輪廻転生を否定する事で、次の転生の先にまで及ぶ事も有る

因果応報も否定します。


では、なぜこの輪廻転生を否定し出したかと言う事ですが

これは「懺悔」と言う作業で、

因果応報の主導権を「神」から神父、牧師に移したかった・・・と

言う事では無かったかと思っています。


この事でキリスト教の聖職者は大きな権力を手に入れ

信者を自分達のコントロール下に置く事が出来るようになります。

そこでキリスト教の神父、牧師や司祭は

懺悔の部屋を設けて、許された事を伝え、協会に寄付するように伝え

霊的には無罪放免にしてしまいます。

キリスト教では償いまで、聖職者のコントロール下で行ってしまいます。

「良心の呵責」を「懺悔」に変え「寄付」で終わらせたのです。


仏教の輪廻転生では、死後の「振り返り」の期間に反省し

それを償う為に転生に挑む・・・と言う解釈をしますが

これは、魂が自ら行う行為で、僧侶は考え方は伝えるが

この事(輪廻転生)には関与しません。

今世で反省するか、死後の天国で反省するのかの違いですが

これに対して仏教では

償いは次の転生先に委ねられ、あくまで本人の自覚と反省、

その後の理解、言動で全てが行われ、

コントロールもあくまで本人の自覚にあると言う考え方ですね。


自分の人間としての成長を

自分の知識と体験と精神性で行っているか

キリスト教と言う宗教に委ねているいるかと言う事の違いで

私は、自らの考え方の変化で行っていく方が

回り道には見えますが、結果的には早いと思っています。


キリスト教がこのコントロールを取り上げることで

絶大な求心力を示してもいますが

司祭や、牧師や、神父、と言われる聖職者が

高級霊と言われるほどの人格者ばかりなのでしょうか???


私はこの部分に大きな疑問を感じます。

私は輪廻転生、因果応報をコントロール出来るのは

高級霊以外にないと思っています。

実際には、コントロールされているのか

自ら行っているのかさえも解りませんが・・・。


ここで一つ、高級霊と言う認識の確認を

「神とは」と言う所にも書きましたが

私の言う高級霊と言うのは

ほとんど「神」に見えるような存在の事で

日本では多くの人がそう言う存在を神と言っています。

私は神とは根本創造主だけで

それ以下の存在は根本創造主の創造物?

物ではないので創造魂とでも言うような存在ですね

そのような存在の事を高級霊と書いています。

この文章では便宜的に神と書きましたが

実際は高級霊の事です。


一般的には「宗教」=「信仰」と言うイメージになっていますが

信仰の入り口に宗教があると言うのが真実で

正確には先に信仰心が本人の中にある訳ですが・・・

その信仰心に気が付いた時に

その事について説明しているのが宗教と言う事になります。

別の方法で説明しているのがスピリチュアルですね

宗教が多くの戒律を設けて組織として活動しているのに対して

スピリチュアルは戒律も無ければ組織も無いので

もっとオープンになっています・・・が

まだまだ歴史も浅く説明しようとする人が、雨後の竹の子のように現れ

玉石混交の世界になってしまっています。


これから探究をしようと言う人には

良い宗教も悪い宗教も見分けが付かず

スピリチュアル関係で行われるセミナーや講演会では

はたして玉なのか石なのかも見分けも付かない状態になっています。


いずれもしようとしている事は同じで

何をしようとしているのかと言うと

迷える人々を導き、苦悩からの解放ですが

解放の方法も

有る所では、お題目を唱えていれ・・・大丈夫

有る所では、元々苦悩など無いんだよ・・・

有る所では、これを持っていれば・・・大丈夫

と、それぞれ言う事が違います。


又、それぞれの神については説明していますが

その先が無いですね・・・

どうみても自分達の示す神については語りますが

「信仰」に付いて説明しようとしている所は

少ないように思います。


人間として目指すのはこの「信仰」だけで

信仰によって対峙する事の出来る存在に対してのみ

畏敬の念を抱くようにすれば良いのではないかと思いますね。


人は本来その信仰の方向に進むべきですが

その前に、宗教や色んな組織が邪魔をしているようにも見えます。

真の信仰は宗教のさらに先にあると言う事ですね

「信仰」>「宗教」 の関係に有ると言う話です


宗教の示す神を信仰だとしていると

その宗教から見る世界観しか見えない状態になって

信仰の一部分しか見ていない事になります。